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悪の教科書   第0講 「悪」

(主人公:『先生』)





私の皮膚で何か冷たいものを感じる。…雨だ。

あれから私は一体どれぐらい眠っていたのだろうか?

ゆっくりと眼を開ける。

全て開いたはずが、何故か右側の視界が非常に悪い。
右眼のあった部分を手でそっと触れ、左眼の前に持ってくる。
色の失われた世界にあって、それが自らの血液であることは理解出来た。
私の右眼は……落下の衝撃で潰れてしまったのだろうか。
或いは、視神経だけ千切れて、そこら辺に転がっているだけかもしれない。

……しかし、痛みは感じない。

本当に私は美樹さんや健太くんのいる世界へ来れたのだろうか?

私は……?

ふと、私は自分の名前を思い出せないことに気付いた。
父さんや美樹さんが私をどう呼んでいたのか、記憶の引き出しに残っていなかった。
転落の際にその部分だけ置き忘れて行ったに違いない。

美樹さんが私の元生徒、そして妻になった人で、病院の受け入れ先が無かったが故に
救急車の中で健太くんをその腹の中に抱えたまま息絶えたことは覚えていた。

健太くんがその美樹さんが命を犠牲にして産み落とした私たちの自慢の一人息子で、
彼の同級生の、手加減を知らない暴力によって10年という短い生涯を終えたことも覚えていた。

……自分が、周りに不幸を齎す存在であることも覚えていた。

しかし、自分自身の名前だけが思い出せなかった。

――いや、最早私に「名前」など必要無いのかもしれない。


雨が降り注ぎ続ける中、私はそっと立ち上がり天を仰いだ。
雨雲に覆われた月が、まるで時間の経過を感じさせないかのようにただ輝いていた。


ずっと聞こえていたはずの美樹さんや健太くんの声はもう聞こえない。
健太くんの焼けた骨を掴んだ両手の痛覚も殆ど消えている。

それでも、現代の教育や医療への憎悪は未だに残っていた。

それでいて、頭の中は酷く冷静だった。


「この世は狂っている。修復しようとしても、もう遅い。
平和など妄想。信じてはいけない。
自分を、愛する人を守るためなら、手段を選ばなくても構いません。
他人を殺し、法を破ってでも生き残りなさい。
…そんな教育をしますよ。これからは」
八重園先生に言った自らの言葉を思い出す。

ならば、私がすべきことは一つしか無い。

第二の美樹さん・第二の健太くんを生み出すことにならぬよう、
現代を生きる子供たちに世の中の「悪」を教えて回ることだ。

名前を思い出せないのなら、ひとまず『先生』と名乗ることにしよう。
私は「悪」を子供たちに教える『先生』だ。自分自身に何度もそう言い聞かせた。
生前、実際に教師――ご立派な教師の真似事――をしていたということもあった。


八重園先生、貴方には悪いと思っています。
しかし、これが……偽りの正義がこの世の「正義」であるならば、
私は「悪」を説くことでしか子供を含めた全ての人々を救うことは出来ません。
許してください。

――未だに許しを欲しているのか、私は。


意識がはっきりしてきた頃、自分の倒れていた場所から然程離れていない位置に、
自分と同じように身を投げたのだろうか、会社員と思しき男性の遺体を発見した。
彼は黒い革グローブを身に着けており、近くには同じく黒い帽子が落ちていた。
私はそれらを拾い上げ、自分のものにした。
両手の火傷と右眼の損傷を隠すように着用すると、道なりに坂道を下り始めた。



教えたかった。

少しでも多くの子供たちに世の「悪」を教えて回りたかった。

私に生きることを強要されている以上、

そうすることでしか他の誰かを救うことは出来ないと思った。

美樹さんと健太くんの命を奪った者達の命を奪う暇など無かった。




色の無い世界の街を気ままに巡り、
無数の書物に目を通し世の中の何がおかしいのか再確認。
以前のような失敗が無いように、
医学の知識や人の殺し方なども自分の狂った脳味噌に無理矢理叩き込んだ。

こうして4年間、私が『先生』となるための日々が続いた。




そして2007年の、少し涼しくなってきたこの時期に、
私は気紛れでこの小岩井の地へと足を運んだのだった。
ここの夜の空気は丁度いい加減に冷えていて美味い。


やはり気紛れで途中の駅で下車することにした。
車内の揺れが収まり、ドアが開く。
普段から人気の少ないであろう駅のホームに私は降り立った。

そのホームの端に私は人影を認めた。
見た感じ、塾帰りの中学生といった所か。
やせ細った小さな体を紺色の学ランで包んだ、まだ幼さの残る少年。
鞄を所持していないことは少々疑問だったが。
彼は英語の単語帳を読むことに熱中しており、
こちらの気配に気付いている様子は無かった。

私はその少年に死んだ息子・健太くんの面影を重ね合わせていた。
だが、健太くんにあそこまで悲しい目が出来るものだろうか。

何故なら、彼と向かい合っている単語は"die"――即ち「死」だった。

……両手の火傷の跡が疼く。

理不尽な「死」の未来が目の前に転がっていると知って、放置しておくわけにもいかない。
何の罪も無い子供をこれ以上見殺しになど、出来はしない。

一歩一歩、ゆっくりと彼に近付く。

彼の思考がまるで自分のものであるかのように自分の中に流れ込んでくる。
彼が現在いじめに遭っていて、場合に拠っては自殺することも辞さない、と。
自殺することで同級生にいじめの酷さを知らしめてやるんだ、と。

元々、そういう思考が、歪んだマスコミの所為で現代では当たり前になりつつあった。


そして、私はその少年に声をかけた。

「死について、お考えですか?」


真田優輝。

彼こそが、私こと『先生』が初めて受け持つことになる生徒だった。



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